数々の記録を持ち、野球界のスーパースターであった清原和博が覚せい剤取締法違反で逮捕されたのは2016年2月2日のこと。
甲子園から常に脚光を浴び続け、日本のプロ野球界を牽引してきた彼の逮捕に野球界のみならず日本中が衝撃を受けました。
なぜ、清原は薬物に手を出してしまったのでしょうか?
そして2018年に発刊された、「告白」を著した心境とはどういったものだったのでしょうか?
野球界の英雄、清原和博のストーリーを通して、薬物依存の恐ろしさについて語っていきます。
何故薬に手を出したのか?
高校時代から注目され、同じPL学園だった元プロ野球選手「桑田真澄」と共に一時代を築きあげました。
そんなスーパースターが何故薬物に手を染めてしまったのでしょうか?
その真相について見ていきましょう。
いつから使用していた?
裁判では「遅くとも引退した2008年すぎ頃から覚せい剤を使い始め、以降繰り返し使っていた」と供述しています。
しかし、実際は1995年頃には既に黒い交流があったという噂があります。
その際暴力団関係者から合成麻薬であるMDMA(通称エクスタシー)を使ったことがきっかけといわれています。
さらに巨人時代のチームメイトは、彼が薬物に手を出していることを皆知っていたといわれています。
元プロ野球選手で当時同僚だった、「野村貴仁」が2006年に違法薬物取締法違反で逮捕されました。
野村は、清原が逮捕された事に関して言及。「球場で覚せい剤を渡した」と暴露したことが話題になりました。
また逮捕された後、清原が「俺の事は言っていないよな?」と連絡してきたと語っています。
事実、清原自身出所後のインタビューで、「現役時代にグリーニーを使用していた」と告白しています。
グリーニーとはアンフェタミンと類似の構造を持つ医薬品で興奮剤のことです。2007年に使用が禁止されました。
覚せい剤であるアンフェタミンと同類のものですから、グリーニーも使用禁止となるのは当然でしょう。
その影響からか、巨人に入団してから2005年までの8年間の間、清原のルックスは大きく変貌しています。
そして、その時から暴力団との関係が噂されていました。
巨人への移籍が原因
1997年から巨人に移籍します。
元々、清原はドラフト時に巨人入りを希望しており、清原にとって、巨人軍入団は夢の実現であるとも言えたでしょう。
しかしながら、その思いとは裏腹に巨人時代はケガに悩まされることになります。
いかなる状況だろうと、常に結果を求められる巨人軍でプレイするのは相当なプレッシャーだったかもしれません。
コンディションを保つため、清原は試合前にニンニク注射を打つようになり、また、それは周りにも知られていたようです。
ニンニク注射の成分は違法薬物ではない為、ドーピング規定に違反するというものではありませんでした。
しかし、何かに依存する体質というのはこの時から既に出来上がっていたのかもしれません。
黒い交流の噂

暴力団との関係が深まったのは、故障に悩まされていた巨人時代だといわれています。
1996年に、暴力団関係者と賭けゴルフをしたことを別の暴力団関係者から脅されていたとのこと。
そしてその問題を解決する為に、また別の暴力団に接近したことから、彼らとの関係が深まったとの噂があります。
その事が報じられた1999年は、巨人に入ってから最悪の年で、またプロ野球生活の中でも最低の成績でした。
2003年頃からは、暴力団との関係が度々報じられるようになっていきます。
2006年から2008年の引退まではオリックスに所属、そして引退後から益々暴力団との関係が強くなっていったようです。
裁判では「引退後は不安を野球で解決できなかった」「心の隙間を埋めるために使った」と語っています。
森監督が影響?
当時、西部ライオンズの監督を務めていた森監督が原因であるという意見があるようです。
森監督は1986年から1994年まで監督を務め89年以外、チームを日本一に導いた監督で西部の黄金時代を築いた名将です。
そして、当時ルーキーだった清原を大々的に起用し、彼をプロ野球を代表する名選手に育て上げました。
森監督は清原にとってはまさに「育ての親」と言っても過言ではないでしょう。
当時の森監督の方針は「自由奔放」だったようです。それが清原和博をスターにしたといわれています。
しかしながら、皮肉にもそれが原因で彼は薬物に手を染めてしまったとの意見があります。
「森監督は清原に野球は教えたが、社会人としての常識を教えなかった」とは、前西部監督である広岡氏の言葉です。
逮捕
2016年2月2日、午後11時過ぎ、自宅のマンションにて覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されました。
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